幼少~ドイツ滞在期(1908~1945年)

生い立ち、ドイツ滞在、石炭との出会い、ソ連軍による連行、奇跡的な生還、帰国

1908

(明治41年)

0歳

満洲(大連)に生まれる

3月30日、教育家であった浅井政次郎の長男として満洲(大連)に生まれる。
10歳頃まで大連で過ごし、東京へ引っ越す。

1928

(昭和3年)

20歳

旧制水戸高校を卒業

旧制水戸高等学校、文科甲類(第一外国語:英語)を卒業。
このとき出会った同級生とは生涯親交を保ち、中には将来のアサイゲルマニウムの事業支援者もいた。

旧制水戸高校正門
(『時 乾坤に移ろいて リードル会の想い出』より)

1932

(昭和7年)

24歳

東京帝大法学部を卒業し、商社に入社

学士試験に合格し、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。
大倉商事株式会社に入社。

1934

(昭和9年)

26歳

駐在員としてベルリンに派遣

大倉商事株式会社のドイツ駐在員としてベルリン支店に派遣。

日本郵船社の靖国丸にて横浜から欧州へ出発

1936

(昭和11年)

28歳

ドイツ・エッセン市の炭鉱で感銘を受け、人生観が変化

この頃、何かしら心に満たされないものがあり、強度の神経衰弱になってしまう。
ある日、友人のドイツ人青年に連れられて、ドイツ西部に位置するルール地方の中核都市、エッセン市の炭鉱へ案内される。炭鉱の地下600メートルまで下り、採炭現場を見学。必死の形相でピックハンマーを握りしめて自然に挑んで働く人々の姿を見て胸を打たれ、人生観が変わる。
「私のゆく道はここにあるのだ」と悟り、石炭研究の道を志す。

炭鉱内の浅井一彦

秘書のドイツ人女性と結婚

秘書であったエリカ・フェルターホッフと結婚。

浅井夫妻

1938

(昭和13年)

30歳

帰国後、転職する

一旦帰国した後、日産自動車株式会社に入社。その後、満洲重工業開発株式会社(前身:日産コンツェルン)に転職。

1939

(昭和14年)

31歳

再びドイツへ

シベリア鉄道経由で再渡独。このとき、第二次世界大戦の開戦直後であった。

ベルリン工科大学に入学し、鉱山冶金、特に石炭学について学ぶ

満洲重工業開発社の鮎川義介総裁と高碕達之助副総裁の支援のもと、石炭研究のためベルリン工科大学に入学。鉱山冶金、特に石炭学を専攻。

世界的な冶金学者であるロバート・デュラー(Robert Durrer)教授に学び、ナチスに公然と反対するほどの確固たる信念や、人類愛にあふれた人柄と人生観に接して深い感銘を受ける。

1941

(昭和16年)

33歳

ドイツの炭鉱で働き、実地で採掘技術を習得

この頃、卒業条件のための実習としてルール地方のフリードリヒ・ハインリヒ炭鉱等で働き、実地で採掘技術を習得。

6月22日、ドイツが独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻し、独ソ戦が開始される。

フリードリヒ・ハインリヒ炭鉱(Wikimedia Commonsより)

1943

(昭和18年)

35歳

大空襲による火災を消し止め、屋上から飛び降りて大腿骨(だいたいこつ)を骨折

11月22日から26日にかけて、英空軍がベルリンを猛烈に爆撃。当時浅井は家族を疎開させ、ベルリンで卒業論文を書いていた。
アパートのドイツ老婦人たちから懇願され、屋根に上り、焼夷弾による延焼を食い止める。その途中で三階が燃えだしていることに気がつき、屋上から四階、さらに石畳の路上に飛び降り、気を失う。奇跡的に一命を取り留め、病院へ運ばれて大腿骨骨折の手術を受ける。
なお、この勇敢な働きにより、1944年2月にはヒトラー総統より剣付鷲十字勲章が授与されている。

浅井が飛び降りたベルリン市内の建物の焼け跡

ベルリン工科大学卒業後、石炭組織学について研究

ベルリン工科大学を卒業し、エッセン石炭研究所に入所。
石炭組織学の著名な専門家であるキュールワイン(F. L. Kühlwein)博士による指導のもと、石炭組織学についての研究に取り組む。

1945

(昭和20年)

37歳

ソ連軍による連行、奇跡的な生還、そして帰国

4月上旬、ヴァイマル(ワイマール)近くの寒村に疎開していた家族(妻、子供4人、義母)と離れて、所用のためにベルリンへ赴く。

4月23日、ソ連軍がベルリン郊外に侵入し、ベルリン市街戦が始まった。ソ連軍に捕らえられた浅井は、5月8日のドイツ軍の無条件降伏後、スパイ容疑にかけられた。ドレスデンの監獄を経て、モスクワへと連行される。

九死に一生を得て奇跡的に生還し、ソ連の日本大使館へ送り込まれる。
佐藤尚武大使の厚情により、ドイツに残した家族救出保護についてスイス、スウェーデン、ノルウェー、デンマークの元首と赤十字社に対して電報を打ってもらう。シベリア鉄道経由で単身帰国。

妻子の生死不明のまま東京に戻ってくれば、またこの惨状。(…) 私のその時の心理状態は、今もって不可解なのだが「何かやってみせるぞ」という気概が、からだ中に満ちあふれていたのである。

(『ゲルマニウムと私』より)

ドイツの地図(本文中の都市は

ベルリン市街を前進するソ連軍の戦車
Wikimedia Commonsより)