トップ浅井一彦とアサイゲルマニウム浅井ゲルマニウム研究所期

浅井ゲルマニウム研究所期(1969~1982年)

医薬品としての開発、海外の学会での講演、著書の出版、研究会結成

1969

(昭和44年)

61歳

新聞への寄稿が、大きな反響を呼ぶ

1月20日付の日本経済新聞に、水溶性有機ゲルマニウムについての浅井の寄稿が掲載される。これが非常に大きな反響を呼ぶ。

その後、スポーツ新聞や週刊誌にて、浅井が開発した有機ゲルマニウムについて特集される。以降、有機ゲルマニウムの認知度は高まっていった。

掲載された寄稿(日本経済新聞より)

1970

(昭和45年)

62歳

水溶性有機ゲルマニウムの医薬品開発を始める

研究所が乗っ取られ、無一文になる

公害被害者のための水銀・カドミウム中毒に対する研究委託に関してトラブルが起こり、かねてからの浅井の協力者が態度を一変させる。浅井の研究所は乗っ取られて、財産がなくなってしまう。

1971

(昭和46年)

63歳

最後の力で研究所を再々出発

石炭綜合研究所時代の所員とともに、再々出発。

水溶性有機ゲルマニウムの安全性試験を開始

浅井の友人のつてで、東京電力病院の石川明医師が有機ゲルマニウムの研究に関与することになる。同医師は、各機関の研究者を次々に浅井へ紹介。水溶性有機ゲルマニウムの安全性試験を北里大学薬学部、その他研究機関との共同研究にて開始する。

1975

(昭和50年)

67歳

ニューヨーク・アカデミー・オブ・サイエンスの正会員に推薦される

著書第一作『ゲルマニウムと私』を出版

9月、著書『ゲルマニウムと私』が出版される。同著の中で、かねてより主張していた「ゲルマニウムは体内で酸素を豊富にしてくれる」という酸素代替説を発表。

著書『ゲルマニウムと私』

フランスでの世界自然医学学会にて講演

フランスのエクス=アン=プロヴァンスにて開催された第一回世界自然医学学会に招かれる。浅井は有機ゲルマニウムに関して講演し、反響を呼ぶ。

株式会社浅井ゲルマニウム研究所を設立

12月、個人研究所であった浅井ゲルマニウム研究所を法人化。

1976

(昭和51年)

68歳

スイスでの世界自然医学学会にて講演

スイスのビール(ビエンヌ)で開催された第二回自然医学学会にて講演。大きな反響があり、地元の新聞に報じられる。

第二回自然医学学会のパンフレット

1977

(昭和52年)

69歳

念願の自社研究所が落成

2月11日、狛江研究所の開所式を開催。かつての石炭綜合研究所のOBとOGも参加した。
開所式の挨拶において、浅井は「私は来年古稀の年を迎えんとしておりますが、夢にまでみた、正真正銘の私自身の研究所を、持つにいたったこの喜びは、あまりにも大きくて、とてもとても表現出来ません」と語った。

狛江研究所(開所式)

イタリアでの世界自然医学学会にて講演

イタリアのフィレンツェ(フローレンス)で開催された第三回自然医学学会にて講演。本回でも大きな反響を呼ぶ。

1978

(昭和53年)

70歳

著書第2冊目を出版

著書第2冊目『ゲルマニウム讃歌』を出版。

1979

(昭和54年)

71歳

学術集会「ゲルマニウム研究会」を開催

6月、「第1回ゲルマニウム研究会」を開催。全国の大学、研究機関の研究者とともに、本格的な有機ゲルマニウムの生物活性研究が開始される。
研究会の世話人には、財団法人佐々木研究所の佐藤博博士らが就任。同博士は、1970年代前半に石川明医師から浅井へ紹介されて、有機ゲルマニウムの研究に取り組んでいた腫瘍学専門の研究者であった。

1981

(昭和56年)

73歳

著書第3冊目を出版

著書第3冊目『ゲルマニウムとわが人生』を出版。
脱稿後、突然吐血し、体調を崩す。

1982

(昭和57年)

74歳

10月22日、永眠

5月、箱根への社員旅行に妻とともに参加したものの、その後再び体調を崩す。

10月22日、「私のゲルマニウムを人々の健康に役立ててもらいたい」という想いを研究所員に託し、生涯の幕を閉じる。

1970年代のアメリカ講演時に
笑顔を見せる浅井一彦